平和な時代に生まれて、思うこと
2019.12.24
経営企画部のYです。
以前から気になる場所があり、先日、天気も良かったので一人でぶらりと京浜急行で追浜へ行ってきました。
追浜駅を降りてから、20分ほど歩いた所に「貝山緑地」がありました。
貝山緑地に入ると、私以外の訪問者はなく、この先には長い上り坂が続いていました。ここは戦前、海軍少年航空兵の教育機関があったとのことであり、長い文章が刻み込まれた石板が建っていました。
この石板には次のような文章が刻まれていました。
「光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し 国を想うひとすじの少年たちが溌溂としてここに溢れていた
昭和五年六月一日横須賀海軍航空隊の一隅に海軍少年航空兵の教育機関として横須賀海軍航空隊豫科練習部が誕生しやがて豫科練と愛称されるようになった
志願者の年齢は十五歳から十七歳修行年限は三ヶ年優秀なる大空の勇士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ってこの制度は創設され全国五千九百余名の志願者から厳選された七十九名が第一期生としてここに入隊した土浦三重鹿児島など後には十九を数えるに至った豫科練航空兵の萌芽である
時局の進展につれて海に臨み山を負うこの地は狭小となって昭和十四年三月霞ヶ浦湖畔に移り翌年独立して土浦海軍航空隊となった
豫科練の歴史十五年三ヶ月のうち実に八年九ヶ月はここ追浜の地で教育活動が行われたのであるそこで目指したものは優れた搭乗員としての人間形成と基礎教育であった少年たちは鉄石の訓練をものともせず乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて自らを育てていった
豫科練を巣立った若人たちは飛行練習生過程実用機錬成教育と研鑽を重ねてたくましい若鷲と育ち太平洋戦争に於ては名実共に我が航空戦力の中核となり水陸の基地から航空母艦から戦艦巡洋艦或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが戦局利あらず敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり名をも命をも惜しまず一機一艦必殺の体当たりを決行し何のためらいもなく無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
顧みれば少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく制空護国の一途の念いからであった豫科練誕生以来既に五十一星霜若人たちの至純の赤心が祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ
昭和五十六年六月一日
此の地に学んだ生存者一同」
上り坂の頂上には展望台があり、横須賀港を一望することができました。
現在はひっそりとした緑地となっていますが、今を遡ること89年前、航空兵を目指す少年たちは目を輝かせながらこの地に学んだことでしょう。
豫科練は、昭和14年に茨城県霞ケ浦に移転し、昭和16年、太平洋戦争に突入します。
昭和18年、当時の海軍省の後援により、豫科練訓練生を描いた映画「決戦の大空へ」が製作されました。
当時、国民的女優であった原節子さんが起用され、この映画の挿入歌であった『若鷲の歌』は大ヒットしたそうです。
国をあげて航空兵の養成を応援したのですね。
「国家」が始めた戦争の先陣に立たされるのは、いつの世でも将来を背負うべき若者であります。
人は武器を持って力をつけると、それを使ってみたくなるのが本能だと思います。
しかし、誰がそれを制御することができるのでしょうか。
「人生100年時代」とはいわれておりますが、長生きすることが素晴らしいことなのか? 疑問に感じるようになりました。
そして、平和な時代に生まれて、これからの人生の生き方を考えなければいけないと思うようにもなりました。
─以上─