下水道・排水管の維持管理機器(清掃機・カメラ・止水プラグ・ワイヤー・テストボール)や配管清掃、満水試験はカンツール

携帯電話をご利用の場合は最寄りの営業所へご連絡ください

0120-812-432 [受付時間]8:30~17:30

お問い合わせ

新着情報

関東大震災

9月1日は「防災の日」だ。
大正12年(1923年)のこの日に発生した関東大震災に由来する。
文字通り地震に対する備えを促す意味もあるが、例年この時期の日本列島には台風の襲来が多く「災害への備えを怠らないように」という意味が込められ、1960年に制定された。

1923年9月1日午前11時58分、神奈川県相模湾北西部、相模トラフを震源とするマグニチュード7.9の海溝型地震が発生し、東京、横浜を中心とする関東地方周辺に甚大な被害をもたらした。
その範囲は、阪神淡路大震災の10倍の広さになる。
震源地に近い鎌倉由比ガ浜では、9メートルに達する津波が観測され、鎌倉の大仏は30cm動いたという記録が残されている。
相模湾沿岸部の海岸線を走る線路は土石流により寸断され、小田原市付近では列車が海中に没する事故が発生し、多くの犠牲者が出た。
都市部では、地震発生時刻が昼食時で、家庭では火を使う時間帯であったことが災いし、大規模な火災が発生した。
折悪く、地震前日から台風の接近による強風によって炎があおられ、火炎を含んだ竜巻状の渦「火災旋風」となって東京市の面積の40%を焼き尽くした。
この火災によって命を落とした市民は6万6千人にもなった。
震災によって亡くなられた被害者総数が10万5千人とされており、如何に火災による被災者が多かったかがわかる。

現在の墨田区横網町公園には、この震災で亡くなられた人を慰霊する慰霊堂(後に東京大空襲の犠牲者と合祀)や鐘楼が祀られている。
ここは震災の起きる前年、陸軍被服廠の移転に伴い公園の造成中で広い空き地となっており、被災者が避難のために集まっていた。
ところが強風にあおられた火災旋風により、持ちこまれた家財道具や布団に火が燃え移り、人々を一気に飲み込んだ。
この地だけで3万8千人の命が失われた。

その犠牲者の中に、私の祖父がいた。
山梨県東山梨郡松里村(現甲州市)で農業を営んでいたが、少し前から暮らした東京で被災した。
祖父は臨月を迎えていた祖母を安全な場所に避難させようと必死に守っていたが、やがて紅蓮の炎に巻かれ数メートルも巻き上げられたと父に聞いた。
当時の父は祖母のお腹の中におり、後に祖母から聞かされたのであろう。
被災した祖母は大八車に乗せられ、多くの方の協力で命からがら山梨県の生家にたどり着き、父を産んだ。
その日が9月27日。
父は今月満100歳、紀寿を迎える。
父は、農家の4人兄弟の末っ子として育ち、軍人になるため上京。
横須賀海軍工廠で終戦を迎えた。
幸い戦地に赴くことはなく、戦艦「信濃」の艤装を担っていた。
因みに「信濃」は日本海軍が秘密裏に建造を進めていた大和型戦艦「大和」「武蔵」に次ぐ3番艦として期待されていたが、就航後10日で米軍潜水艦の魚雷攻撃によって轟沈した悲劇の艦船である。
戦後、父は大正、昭和、平成、令和と四つの時代を生き抜き、今でも毎日、新聞を隅々まで読み、俳句をたしなみ、書道にいそしむ生活を送っている。
末永く健康を願ってやまない。

地震大国と言われる日本である。
周期的な予測では、いつ大地震が起きても不思議ではない時期に来ている。
関東から九州の広い範囲で強い揺れと高い津波が発生するとされる南海トラフ地震、首都中枢機構を直撃するとされる首都直下地震、日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震、中部・近畿圏直下地震等の発生確率が年々高まってきている。
地震はいつどこで発生するかわからない。
自分、家族、財産を守るため、いつでも冷静に対処できるよう備えなければならない。
地震に対する知識、心得を身につけることが大切だ。
「出口の確保」、「火の始末」、「非常持ちだし品を備えておく」。
これだけでも準備しておかなくてはならない。